「聖書は実際に何を教えていますか」を読む(2)
さてP11「神は人間が経験する、公正に関する事柄をどう感じているか」から参ります。
神は「公正を愛される方」である、と聖書は教えています(詩編37:28)。
らしいですが、自分が中東神話をちょっと読んだところでは、自分に従わない者を躊躇なく傷めつける全く公正さに欠ける存在に思えましたが。ん?「公正を愛する」けれども自身は公正な態度を示さない、ということか(笑)。
公正に反する事柄をすべて憎まれます。
紙を信じる者達しか救わない存在が公正を語れないでしょー。
そこからP11最後まで、紙が人々のことを気にかけているように書いていますが、紙に書いただけで気にかけていると認められる前に困っている人々を救わんかい!!!
そうだ、ここでまだ紙が「神」として書かれていることを憶えておいてください。
P12
聖書は、人間が神の像に作られたと教えています。つまり人間に良い特質があるのは、神が良い特質を持っておられるからです。
ふーん、でも人間には悪い特質もあるよね。つまり神も悪い特質を持っているということになりますねー。普通に中東神話を読めば、神に悪い特質があることはおのずと分かりますが。
例えばあなたは、罪のない人が苦しむのを見れば心が痛むのではないでしょうか。
エホビアンは「世の人はサタンに毒されているから苦しんで当然。心が痛むことなどありません」と言うことでしょう。
聖書は「神は愛」であると教えています。
「神は愛」ならば神という存在は必要ありませんね。自分の周りに愛を持って接すればよいのですから。信者でない人を「世の人」を見下す輩に愛はあるでしょうか。
神が苦しみと、公正に反する事柄を終わらせるのは、同じように確かなことです。
その前の文章を用いているのでしょうけど、根拠もないのに「確かなこと」などと言わないの。
約束をなさった神についてもっと知る必要があります。
誰がいつどのような約束をしたのかな。少なくとも自分と息子たちはそんな約束してませんよ。
P12「あなたが神を知ることを、神は望んでおられる」
もしあなたが、自分をだれかに知ってほしいと思うなら、どうするでしょうか。自分の名前を知らせるのではないでしょうか。
自分だったらまずあいさつをするな。そして相手に話しかけるだろう。自分の名前を名乗っても、その後何も言わなかったら忘れられてしまうだろうし。
さあ、出てきました。今まで「神」を書いてきたものをP13から「エホバ」という名前に切り替えようとしています。
P14
神はいわば聖書を用いて、自己紹介をしておられるのです。
「エホバ、エホバ、エホバでございます。皆様に楽園を提供するエホバでございます。ハルマゲドンでサタンに勝つため、私に清き一票をぜひお願いいたします。(いつまでも続く)最後のお願いでございます、このエホバを神にしてやってください!お願いします!エホバです、エホバです、エホバです」・・・しつこいよ。公約を果たさなきゃ名前なんて憶えないよ。
神がご自身につけた名前には深い意味があります。その名前エホバには、神はご自分の述べた約束をすべて果たすことができ、考えておられるどんな目的をも遂行できるという意味があります。
付録P195〜197を読んでみた限りでは、上記を証明する説得力に欠けますね。しかし自分で自分に名前をつけたなら、言語に関係なく同じ呼び名になるんじゃないですかね。
P15
「全能者」という称号から分かるとおり、エホバは最も強力な方です。
「全能者」と書かれているだけで強力ならば、TVゲームのラスボスも「全能者」ですね。全能者の力を示すためには地上の現実世界に直接インパクトを与えないと。
エホバは、ただひとり創造者と呼ばれている点でも独特な方です。
「日本書紀」のイザナミ・イザナギも創造者だよ。日本という国を作ったんだからね。エホバさんだけが独特(unique)な方ではございません。世界各地に独特な神様がいることを、エホビアンたちは知らないんです。知ったかぶりを見てるとこちらが恥ずかしくなります。
あなたが思い浮かべることのできるどんなものも、エホバが創造者であるからこそ存在しているのです。
エホバが創造者である根拠を示しましょう。「中東神話に書いてあるから」は理由になりません!
P15「エホバに近づくことができるか」
神は人間からあまりにかけ離れているので近づくことは絶対にできない、自分はそのような崇高な神からみると全くつまらない存在だ、と思うのです。
根拠のない断定をすることで、人を踏みつけ紙を優位に立たせようとしています。自分に言わせれば、つまらなかろうが何だろうが、今生きている自分を愛することができれば充分です。いるかどうか分からない紙と自分を比べるなど、愚かなことです。自ら自分を踏みつけるようなことはやめましょう。
P16
「彼らが、唯一・・・これが永遠の命を意味しています」。そうです、聖書は、エホバとイエスについて学ぶことは「永遠の命」につながる、と教えています。
「永遠の命」とは人間が不老不死になることを示しているように読めません。むしろ肉体は滅びても魂は残る、というニュアンスを示したかったのではないでしょうか。
例えば、エホバは「憐れみと慈しみに富み、怒ることに遅く、愛ある親切と真実とに満ちる紙」である、と記されています(出エジプト記34:6)。
その場所では書いてあるだけで、それ以前も以後も暴虐な紙はすぐ怒り、自分を崇拝するものしか救わない暴君として描かれました。
確かに、紙は目にみえない霊であり、紙を見ることはできません。
いないものは見ることはできないですね。ただ「目に見えない」存在というのは厄介なのです。「見えないもの」の存在を否定しきれないのが今の科学で、エホバの証人はそこを突いて「エホバは存在する」などと言っています。
エホバについて学べば学ぶほど、エホバはあなたにとって現実的な存在となり、あなたはいっそうエホバを愛し、エホバを身近に感じるようになります。
おとぎ話を読んで、登場人物を現実の存在だと思う方々の精神年齢はどのくらいでしょうか。実害がなければ愛想笑いをしておさらばするのに。
さらに、・・・愛情深い父親が子どもにそう望むのと同じです。
知らぬおっさんに学校を眺められても恥ずかしいだけです。
聖書はさらに、人間がエホバの友になれるということも教えています。
友とは、互いに言いたいことを包み隠さず話せる間柄で、家族など周りに影響されない関係を作れる相手、だと思います。
一方的に要求を出し、自らは人々の願いを聞き入れない相手を友と呼べますか?
聖書を学ぶにつれ・・・だれにも妨げられないようにしてください。
この一連の文章は、ものみの塔聖書教会の書物だけを読んで、他からの意見を聞いてはいけません!という誘導です。
イエスは、子どものように謙遜であるのは良いことであると言われました。
エホバの証人の親は、子どもたちを「謙遜でなければいけない」と勘違いしていませんか。謙遜や従順などは大人になってからすればよい。従順さは一歩間違えれば「盲信」となります。
ご存知のように、子どもはたくさんの質問をします。
「聖書に書いてあるから」とか「いいじゃないのそんなこと」という答えには説得力がありません。中東神話からこじつけで答えを引き出さなくても子どもに話せる力を持たないといけません。そして時には「分からない」と言っても良いのです。
かなり飛ばしてありますが、突っ込みどころがけっこうあってすいぶん書いてしまいました。
あ、誤変換があったけどまあいいや。どこが誤変換かはお分かりですよね。
ではお休みなさい。