6月21日は父の日だったなあ・・・
エホビアン妻の家庭では、当然ながら父の日をお祝いすることなどない。まあ自分も母の日を祝おうという気もないので妻に文句を言う気もない。息子たちが自発的に祝ってくれるのならありがたく受けるが、上の息子の脳天気加減を見る限り、期待はしないほうがいいだろう。
さて、その21日、家族でさくらんぼ狩りへ行ってきた。
雨が降り出しそうな陽気だったが、さくらんぼ園はビニールハウスになっており、天候を気にすることなくさくらんぼ狩りを楽しめた。
ここ2,3年は温暖化の影響で、さくらんぼ狩り開始時期が早まった上に、終了時期も早くなっているらしい。
ここ3年は毎年お邪魔しているさくらんぼ園だが、今年は仕事の都合で行ける時期がシーズンギリギリになってしまった。
そのためか、さくらんぼには実が傷んでカビの生えているものが目立った。それでもお腹いっぱいさくらんぼを満喫した一家。上の息子などは制限時間を過ぎても食べ続け、40分の時間を20分もオーバーし、ほぼ1時間食べ続けた。
さくらんぼ園のご好意でおみやげにさくらんぼを頂き、息子たちは大満足。「来年も来ようねー」と大喜びで帰りの電車に乗った。
さて、そこから夕ご飯までは良かった。
夕ご飯の片付けをして、お風呂に入る前にちょっとパソコンをいじろうとした時、上の息子が自分の持ち物だった紙切れ(プレゼントに貼ってあった紙)を破っているのを見て、カーっと頭に血が上った。
「何破ってんだよ」と息子を問い詰め、たじろぐ息子のぼっぺたを思いっきりつねった。
それから寝るまで何故か不機嫌な状態が収まらなかった。
おびえた息子は風呂にも一緒に入らない。しばらくしてやっと入ってきたので安心したが、頭をよく洗わないのに腹を立て、乱暴に頭を洗った。当然ながら息子は怒り、湯船にも入らずに風呂場を出た。
そして寝る前にちらかしたおもちゃを片付けないのに腹を立て、ちらかしたおもちゃを叩きつけながら息子をなじった。
そして言ってはいけない言葉
「お前なんか◯◯◯の証人になってしまえ」
と言ってしまった。
乱暴におもちゃを叩きつけたはずみで息子の指におもちゃが当たり、息子は泣きながら妻の部屋へ。おびえた下の息子も一緒についていった。怒りの収まらぬ自分は布団に転がって眠れずにいた。
1時間近くしてやっと息子たちが布団にやってきた。
怒りすぎたことを上の息子に詫びたが、息子はおびえた様子のままだった。
翌日、上の息子はいつもとそれほど変わらぬ様子だったが、下の息子は朝起きてしばらく自分に近づかなかった。
これが一般家庭だったらひたすら息子に謝れば済むだろう、と思うのだが、エホビアン妻のいる状態で、息子たちが自分を恐れるようになったらどうなるか、という不安が常につきまとう。
妻が自分をサタンだと決めつけ、だったらエホバに従いなさい、という戦略もありだ。
まったく、存在のないものに気を使わなければならないというのはホントに面倒だ。
今回の出来事はほとんど自分に非があった。怒ったことの原因だってそれぞれ大したことじゃなかった。その日でなければ気にもかけなかったかもしれない。でも怒ってしまった。それもケチョンケチョンに。
元の関係に戻すには時間がかかるかもしれない。それどころか横槍が入って元に戻せなくなる可能性もある。
結局その日は仕事の合間にグダグダとそんなことを考えていた。
考えている内に思ったのは、存在しない神と、実存する人間の大きな差が、「謝れるかどうか」ということだ。
人間は間違ったことに気づき、迷惑をかけた相手に「謝る」ことができる。
神は間違ったことをしても誤らない。というよりも、一神教の神は「全能」だから誤ることがない、だから謝る必要がない、というのが一神教を崇拝する人々の理屈だろう。
しかし中東神話の中でも「こりゃ神様の横暴だろうよ」という記述がいくつかある(例:方舟に乗ったノアの家族+動物以外を洪水で滅ぼす行為)。神を全能で完全だと称する輩は様々な屁理屈をくっつけては「神が誤ってはいない」ことにしようとする。
謝罪のできない相手を赦すことはできない。ましてやそんな相手を友になどできるものか。
感情的になってダメダメだった自分は、これからの関わりで息子たちの父に戻れるだろうか。
フン、存在しない奴になど負けない!!! とカラ元気。