「イエスという男」を読む
たもさんの記事
イエスは本当に恋愛しなかったのか!?|たもさんのカルトざんまい
の下に表示されていた本に興味が湧き、読んでみた。
「イエスという男」(田川建三 著)
多くの人々や宗教学者は、イエスを「神の子」だと信じて疑わない。そこからイエスのことを研究しているので、「神の子である」のを前提としてイエスの言葉や行動の意味を考えようとする。そして神の子らしからぬ言動については、福音書著者の考え方や個人の思惑によって、裏の意味を無理に考えようとする。
田川氏は、最初からそのような色眼鏡をかけずにイエスの言動を分析している。
基本的にイエスは、ユダヤ人律法学者やユダヤ社会に批判的な目を向けていたのだと田川氏は考察している。そして現在の新約聖書で書かれていることがイエスの言葉ではなく、福音書の著者が自分の思惑に沿うように表現を変えたものとしている。
その中からいくつか例を挙げてみる。
・「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」(マルコ 9:43)
田川訳
「そんなに永遠の命に入りたけりゃ罪を犯した手を切り取ってでも、罪を犯した目をえぐりとってでも入ればいいだろう」
・「カエサルのものはカエサルに返し、神のものは神に返しなさい」
田川訳
「神に捧げるとして民衆から様々なものを取り上げておいて、あんたらは帝国に税金を納めるのに文句を言うのかい?」
・「神の国はあなた達の中にある」
田川訳
「中」というのが「手の届く範囲」という意味だったので、
「神の国はあなた達の手の届くところにある」
自分の説明が足りないため、これだけではピンとこないと思うが、田川氏は人間イエスがユダヤ人の律法学者たちを批判し、現在の支配体制を批判した上での言葉だと評している。
文章を読んでいると、宗教画に描かれている色白でひ弱そうなイエスではなく、日々の仕事で日に焼け、筋肉のついた屈強な男を想像する。
イエスが普段取税人らと飲み交わしていたというところからも、人間的な彼の姿を想像できる。むしろ神の子と崇められて持ち上げられている男よりも、民衆の中に溶け込んでいるイエスの方が自然で親しみが持てる。
本の中で、イエスが殺された理由も明確に示している。
中東書記(聖書とよばれる書き物)で「原罪」と呼ばれるものをイエスが償うために死んだ、のではなく、ユダヤの律法やローマの支配体制を批判するイエスを支持する勢力が増えたことで支配層が恐れを抱き、結果彼は逮捕され、殺されたのだと書いている。
そういうことであれば、イエスが十字架にかけられた時に
「おお、神ぞ神、なぜ我を見捨てた」と言ったのも腑に落ちる。
初めから自分が死ぬことを覚悟している神の子であれば、こんなセリフは言わないはずだ。知っていてこのセリフを言ったのであれば、大した演技者といいたいところだが、嘘つきである。
本を読んでいて、ふとソクラテスを思い出した。彼も政治家や詩人などと対話し、神の宣託通り自分が最も知恵があるかどうかを検証した。結果として対話した相手の無知と無自覚を露呈させ、彼らの反感を買い、結果として裁判で死刑を言い渡されることとなった。
どちらも自分に正直に生きた結果、その影響力の大きさを危惧した支配層の手によって死を選ばされている。
さて、エホビアンの予言では、楽園が来れば過去に亡くなった偉人が蘇るという。イエスが人間であれば蘇るだろう。しかし田川氏の描いた人間イエスがエホビアンと対話したらきっとこう言うだろう。
「あんたら細かいことブチブチ言ってないで働けよ。生活の糧も自分で得られないくせにえらそうにしてるんじゃないよ。エホバノショウニンとか名乗っているけど、重箱の隅をつついてくるパリサイ派とどこが違うんだ?」
エホビアン達は言うだろう。
「この人はサタンです!」
自分の文章だけでは皆様にうまく表現出来ないので、興味のある方はぜひ読んでいただきたい。JWや元JWの方など、中東書記に詳しい方の方がより楽しめる内容だと思う。