いのち
先日行った潮干狩りで、アサリだけ持って帰るつもりがヤドカリを1匹連れて来てしまった。気づいた時に浜の方向へ放せば良かったのに、その時は判断できなかった。
海砂も海水も残っていたので、バケツに入れておいた。雑食性らしいので、食べ物はアサリと一緒にバケツに入れた海藻と、野菜くずでなんとかできるかと思った。
3週間ほど生きたが、おとといの朝バケツを見ると、貝殻の穴からだらりとノビていた。
生かしてやるつもりなら、エアーポンプを入れることもできたし、海水のろ過もできただろう。でもしなかった。そこまでの労力をかけたくなかった。
5月末に、プランターから伸びたグレープフルーツの葉に、アゲハチョウが卵を産みつけた。数日で孵化したが、糸くずのような幼虫が1週間でハトのフン程度に大きくなった。2週間後には子供の小指程度の大きさになり、運良く鳥に食べられることもなく7匹が大きく成長した。
2匹は上の息子が小学校に持って行ったが、知らぬ間に死んだそうな。多分餌の葉が枯れたせいだろう。
残り5匹は順調に成長した。
その中の1匹が、グレープフルーツの木から離れてベランダの床を這っていた。
グレープフルーツの木に戻してもまた脱走?する。
蛹になる場所を探している(徘徊と書いていた)と知ったのは、ネットで情報を見てからだった。
その時脱走した幼虫は虫カゴに閉じ込めておいたが、2,3日後に蛹になっていた。ただし木の枝につかまることなく虫カゴの床に転がっていた。
程なく他の幼虫も徘徊を始め、マンションの外壁に登ったもの、天井に登ったもの、行方不明になったもの(多分お隣へ徘徊したのだと・・・)、結局蛹として残ったのは2匹だけ。
床に転がった蛹をそのままにしておくと羽化する時に困るだろうと、紙で溝を作り、その上に蛹を乗せた。しかし数日後に蛹にアリがたかっていたので見てみると、中身が空っぽになっていた。アリに食べられたのか、それ以前に死亡していたのかは分からない。
そして昨日、1つ残った蛹がなくなっていたので下の息子に聞いてみると、「蝶々になって飛んでいった」んだそうな。1匹でも成虫になれたことを喜ぶべきだろう。行方不明になった幼虫も無事であれば、と思う。
卵から羽化まで1ヶ月半。
マンションの中庭にヒヨドリが巣を作った。
小さなヒナが親鳥の運ぶ餌を待ちわびて大口を開けている。
雨の日はどうしているのだろうと思って息子と巣をのぞいてみると、親鳥が巣に覆いかぶさってヒナが濡れないようにしていた。親は雨に濡れて平気なのだろうかと少し心配になる。
「あなたにおすすめのブログ」でたまたま覗いた先で、知り合いの死に納得できず、復活を信じる方がいた。
冷たいようだが同情はできない。むしろ「死」を受け入れられないことを哀れに思う。
2000年以上前の世界では、それこそ予想外で理不尽な死がはびこっていたのだろう。
光のまぶしさを感じることなく亡くなった胎児。
病気に対する抵抗力がなくて亡くなった子供。
飢えや寒さ暑さに耐えられずに亡くなった人々。
争いによって断たれた、伸びていくはずだったいのち。
そんな世界に生きていた人々が「復活」や「永遠」を望んだのも分かる。
ただその復活も永遠を望むものではなかったのだろう。
「永遠」を望んでも、満足できるだけ生きる時間を得られればいい、くらいだったのではないか。
生物は死ぬからこそ次の命を生む。死なない生物が増え続けた先がどうなるか、普通の頭で考えたら分かるだろう。
「紙様がなんとかしてくれる」なんて都合のいい言い訳はしないこと。
人間とヒヨドリとどちらが優れているだろう。
空を飛べない人間はヒヨドリより優れているだろうか。
誰かの意見に左右されて自分の意志を持てない人間が他の生き物より優れているのだろうか?
人間さまが生物の中で一番偉いのだ、などと思いあがってはいけない。
今この地球に生きている生物すべてが等しく「ここまでよくぞ生き延びたもの」だと思うのだ。
うう、まとめることができないので、だらだら書き散らして終わり。