古代の民は、スーパーで食料を買いましたか?
下の息子が近所の公園で栗の実を拾ってきた。
公園の隣に農家があり、そこの庭に植えたクリの木からこぼれ落ちた実らしい。
けっこう立派に膨らんでおり、息子が食べるつもりで持ってきたらしい。
しかしツマ、「お腹壊すから食べないでね」と冷たい一言。
下の息子に促されて皮をむいたものの、「ほら、ここ汚くなってるから食べられないよ」と即座に捨てようとするツマ。
そいつを奪ってフライパンに入れた自分。弱火でゆっくりと炒ってみた。
甘みはないが、いわゆるクリの味(すいません、表現力がなくて)。
下の息子が欲しそうにしてたので、ちいさなかけらを口に入れてやった。まんざらでもない表情。
しかしそれをツマが見て激昂。下の息子を自分の部屋に連れて行った。
何を言われたかは分からないが、中東書記の一文からではこれを咎められることはできないだろう。そもそも中東書記が書かれた頃、木の実や果物は市場で買うだけでなく、森や林へ行って取ってくることがあっただろう。
まあこいつは宗教的なこととはあまり関係のない話だ。
「野外で取ったものや拾ったものは危ない」
「スーパーで買ったものは安全」
という固定観念と
「お腹をこわされたり病気になったりすると面倒だから余計なことはしないで」
という思いが見える。
ツマよ、あんたが神経質になって騒ぐから言わないけど、これまでにドングリも桑の実もヤマボウシの実も食べさせてるよ。
人間は弱いけれど、虚弱ではない。多くの経験が人を育てる。
子供がなにかあった時に余計な面倒をみたくないといって子供にダメダメ言ってても子供は成長しない。親もまた然り。