味つけ
「世界の哲学者に人生相談」 第7回は視聴者からの質問コーナー。
「死の恐怖」について。
司会者やゲストのやり取りの中で「死というものは死んでみなければ分からないもの。それを死ぬ前にあれこれ考えても答えは出ない。答えの出ないことを考え続けてもしょうがない。」というような話が出た。
自分も同感。
死を恐怖するのは、多くの死が、その直前に痛みや苦しみを伴うからではないかと思っている。しかし死んだ先はどうだろうか。その痛みや苦しみが死の先にもあるのではないかという恐れを持っているのではなかろうか。
「無になるのが怖い」という人もいるが、意識がなくなってしまえば怖がることもできない。無駄なことだ。
反対に「もし永遠の生命が得られたら何をしたいと思うか」という、どこぞの宗教団体の信者が憧れる内容の話が出た。
出演者の一人は「何もしなくなる」と言った。
永遠に生きていられるのだから、何も急ぐことがなくなるので何かをやろうという気にならなくなる、と。
やりたいことをいくつか挙げた方もいたが、「それをずっとやっていたらいつかは飽きますよね」と解説者に問われると「うーん」となってしまった。
結局いつかは「何もしなくなる」との結論に。
自分がもし強制的に永遠の生命を与えられてしまったら「どうやったら死ねるか」を試し続けるかもしれない。
永遠の生命の何が楽しいのだろう。死ねないことがどういうことなのか想像できないのだろうか。
「死を意識するからこそ 人生は輝くのだ」・・・・・ハイデガー
時間が限られているからその中でやれるだけのことをやろうとする。それが輝きにつながるのか。
「生への執着がない」という人の話も出た。
自分自身もそれほど生に執着がないような気がしている。
もし死に直面しても「あ、死ぬのね(笑)」くらいな感じ。
このまま死んだら息子たちは水没しちゃうんだろうなあ、将来はどうなっちゃうのかなあ、と考えながらも「しょーがないなあ、死んじゃうんだから」と思ってしまいそう。
今の自分の状態は、よくも悪くも自分が導いたもの。
この状態にならないようにすることもできたのだろうが、そうしようと思わなかったしする気もなかった。
料理でいえば、材料も調味料もそれなりに選択できたのに、つまらぬこだわりと他の選択肢が見えなかったために残念な味つけになってしまったような状態か。
でも自分が食べたくて作った料理。まずくても平らげる。苦い。
生きている中でこんな機会もそれほどないかもしれんので、存分に味わう。
こんなことどうってことない。まだまだ味つけ直しは続くのだ。最後まで満足のいく味にはできないかもしれないけど、いつまでもこの苦味を味わい続ける気もない。