問い続けたい「いかにして」
この世界の成り立ちの問い方として、why(なぜ)疑問と、how(いかにして)疑問がある。
先日(カンヌ映画祭の前)、是枝裕和さんとお話しする機会があった。映画監督と生物学者とのあいだにどんな共通の話題があるのか。私たちはこんな話をした。
why疑問文は大きい問いであり、深い問いでもある。なぜ私たちは存在するのか、なぜ地球はこんなに豊かな生命の星になったのか。なぜ家族を作るのか。
科学や芸術を含む人間の表現活動は、究極的にはwhy疑問に対する答えを求める営みだ。しかしここに落とし穴がある。大きな問いに答えようとすれば、答えは必然的に大きな言葉になってしまう。大きな言葉には解像度がない。たとえば「世界はサムシング・グレイト(偉大なる何者か)が作った」のように。それは結局、何も説明しないことに限りなく近い。
だから表現者あるいは科学者がまず自戒せねばならぬことは、why疑問に安易に答える誘惑に対して禁欲すること。そして解像度の高い言葉で(あるいは表現で)丹念に小さなhow疑問を解く行為に徹すること。なぜなら、いちいちのhowに答えないことには、決してwhyに到達することはできないからである。
夏の夕立。見えない花火の音。さびれた海水浴場。チープな手品。是枝作品が、一見、ストーリーとは無関係な、あらゆるhowに満ちあふれているのはそのためである。
自分の認知しないものを引き合いに出す時点で思考停止になっていることを指摘しているのだろうか。
記事に書かれているような科学者の姿勢には敬服する。
分からないことを誰かに預けてはいけないのだ。自分で突き止めることができるのなら、突き止めないといけない。