中東書記(聖書と呼ばれる書き物)を読まない男、紙様にぼやく

本、新聞などの記事について もごもごと感想を書きつつ、どこぞのカルト宗教に取り込まれてしまった方々についてぼやいております。

聖者の凱旋

武蔵野日日新聞 昭和50年4月7日付の記事より

 

「杉並警察署は4月6日、6歳の息子を殺害したとして、東京都杉並区の無職、油村六郎(40)を逮捕した。調べによると、油村容疑者は4月5日深夜、息子の胸を包丁で刺した。6日朝、自宅アパートを訪問した知り合いが油村容疑者と倒れている息子を発見し、警察に通報した。息子は病院に搬送されたが、すでに死亡していた。

油村容疑者は意味不明な発言を繰り返しており、精神鑑定に移される模様。」

 

 

たまたまこの事件の担当記者だった私は、油村容疑者の動機と、記事には書かなかったが彼が口にした「神は私を止めなかった」という言葉が気になり、彼の生い立ちを調べようと思い立った。

 

 

油村六郎(あぶらむら ろくろう)。

昭和10年2月21日、東北地方の寒村に生まれる。男ばかりの兄弟6人の末っ子。

両親は農業で生計を立てていたが生活は常に苦しく、後継ぎの長男を除いて、子どもたちは中学卒業後東京へ出稼ぎに出された。

六郎は中学卒業後、1つ上の兄、五郎の元に身を寄せ、建築作業員としてビル建設などに従事した。

当時の同僚は「寡黙で面白みのない奴だったが、勤務態度は真面目で親方の評価も高かった」と語っている。

その頃東京は建築ラッシュで給料は悪くなかったはずだが、実家への仕送りや次兄らからの金の無心により、五郎と六郎の生活はかなり苦しかったようである。

 

六郎が25の時、五郎が過労で倒れ、寝たきりとなった。五郎の収入がなくなっても仕送りは続けなければならず、六郎は正に身を粉にして働いた。

兄の五郎は六郎と年も近く、幼い頃から六郎の面倒を見ていた。六郎もそんな五郎を慕い、兄のいうことならなんでも聞いた。次兄の理不尽な金の無心も、五郎から頼まれると嫌とは言えなかったようだ。

 

五郎は次第に衰弱していき、六郎の懸命な看病の甲斐なく2年後に亡くなった。

五郎を荼毘に付した後、六郎はそれまで務めていた建設会社を辞め、両親にも兄にも連絡先を告げずに住んでいたアパートを引き払った。

 

それから5年ほど職を点々として行き着いた職場で、後に妻となる沙羅と出会う。

沙羅もそれほど社交的ではなかったが、真面目でどことなく影のある六郎に惹かれたのだろう。

いつしか2人は一緒に暮らし始めた。

沙羅との出会いは宗教との出会いでもあった。

沙羅は当時勢力を伸ばしていた新興宗教を崇拝しており、六郎にもよく話をしていた。

六郎が特に興味を持ったのは、死者の復活と永遠の楽園だった。

もし兄の五郎が復活して永遠に共に暮らせるのなら・・・

六郎は沙羅に誘われて集会に参加するようになり、その宗教にのめり込んだ。兄の復活を願い、布教活動も熱心に行った。そして次第に布教中心の生活となり、仕事を度々休むようになった。

沙羅と出会ってから3年後、六郎は正式に入信した。しばらく後に沙羅が妊娠し、六郎は喜びの絶頂にいた。

だが出産時に大量出血した沙羅は、そのまま帰らぬ人となった。輸血を行えば助かる可能性があったが、彼女の信仰する教理がそれを許さなかったし、彼女も輸血する意思がなかった。

六郎も教理は理解していたつもりだったが、愛する妻を失いたくない気持ちから、沙羅に輸血を受け入れるよう何度も説得した。しかし沙羅はそれを拒み、六郎に「すぐに楽園で会えるから。それまで子供をお願い・・・」と言い残してこと切れた。

 

六郎は途方にくれた。激しく泣きわめく子供をあやす術も知らずに。

親切な会衆の老婦人数人に子供の面倒を見てもらい、彼は必要最低限の仕事と可能な限りの布教活動を行った。沙羅、そして五郎の復活を願って。

 

子供の名前は沙羅の希望で「伊作」と名づけられた。

会衆の老婦人に見守られ、伊作はおとなしくて素直な男の子に育っていった。

しかし六郎にとって伊作の存在は、愛しい息子であると同時に、愛する妻を失う原因となった存在でもあった。愛情と同時に湧き上がる正反対の感情が常に六郎を苦しめた。

元々感情表現が得意ではない六郎は、素直に伊作をかわいがることができず、むしろきつくあたるようになり、時に感情にまかせて暴力をふるった。

伊作は黙って耐えた。六郎にはそれが余計に気に触り、さらに暴力はエスカレートした。

 

昭和48年の春、建築現場で足場から落ちた六郎は右足が不自由になり、満足に仕事ができなくなった。

元々ぎりぎりの生活をしており、わずかな蓄えもすぐに底をついた。4歳になった伊作はすでに老婦人と共に訪問宣教を行っており、訪問宣教に行ったごほうびとしていただいた食べ物を六郎と分け合った。

二人の生活を哀れに思った会衆の何人かがしばらくの間食料や生活物資を援助してくれたが、それも次第に途絶えていった。

やがて伊作と共に訪問宣教していた老婦人が亡くなり、次に伊作を連れ歩くようになった中年男性は、伊作に何も与えなかった。

いつしか伊作も訪問宣教に行かなくなり、事件の起こる1ヶ月前からは、外で二人を見かける者はなかったという。

事件の2週間前に住まいを訪問した会衆の婦人によれば、「アパートの中はゴミだらけで耐えられない悪臭が漂っていた。ぼさぼさ頭でやせ細った伊作が玄関に現れ『おなか、すいた』とだけ言って黙ってこちらを見つめるだけだった。奥では六郎がブツブツとなにかをつぶやいており、食べ物を置くと逃げるように外へ出た。」そうだ。

 

そして2週間後、事件は起きた。

 

 

油村容疑者のいた会衆で、その事件が報告されることはなかった。

集会の最後に「油村六郎兄弟と伊作くんは組織から離れました。」という長老の発表があっただけだった。

 

 

彼の行為は組織に讃えられることもなく、組織の雑誌に載ることもなかった。

ましてや組織が信仰を置く聖なる書物の一頁に加えられるはずもなかった。

 

 

ここに「なぜ六郎は伊作をその手にかけたのか」を書くのはやめておく。何を書いたとしても、あくまで自分の推測でしかないからだ。

 

しかしこれだけは書いておく。

油村六郎はごく普通の人間だった。兄や妻や息子を愛する、弟であり夫であり父であった。

彼と聖なる書物に登場する聖者と、何が違っていたのだろうか。

 

 

ただ、神が止めなかっただけなのに。