翔んで◯◯ その3 焦って高知
3月2日。
朝ごはんを食べてから、それほど間をおかずにホテルを出た。
午前中に恩師のお墓参りをしようと思っていたのだ。
卒業前に非常にお世話になった方で、ずいぶんかわいがってくれた。
高知を離れた後、自分が前の仕事をやめたことをどこかから聞いて心配していた、と亡くなってから聞いた。今の職に就いたと知らせることができなかったのを今も残念に思っている。
20年近く前に一度お参りしたが、これを逃すと次はないだろうと思い、少々きついスケジュールになるが行ってみることにした。
駅そばでレンタカーを借り、高知の後輩からいただいたお墓までの地図とカーナビを頼りにしていざ出発!
恩師のお墓は早明浦ダムの近くにある。高知からだと一山越える感じ。
高速道路を使う気がなかったので、一般道をひた走る。道のりは約50km。
学生時代によく行った山のそばを通り過ぎ、くねくねの山道を走り、付近の道で迷い、やっとこさお墓にたどり着いた。
お線香を焚き、少し長いこと祈った。
恩師にお願いするのもお門違いなのだが、今の自分の問題を解決する知恵をください、と祈った。
祈った後で、恩師の好きなお酒をお供えするのを忘れたことに気づいた。
どうも願いは叶えられそうにない(笑)。
お墓を発ったのが11時。
恩師のお墓参りと合わせて会いたい人がいた。
初めて付き合った娘のお母さん。
娘さんはとてもかわいかったが、お母さんも「かわいらしい」という言葉が非常に合う方だった。
以前書いたかもしれないが、娘さんとお母さんと自分とで夕ご飯を食べる機会があった。
自分がトイレに行って帰ってきた時、娘さんとお母さんは自分の話をしていた。
自分が帰ってきたことに気づかないお母さんは、
「あの子(なおじ)って、ガキがそのまま大きくなったような子だよねー(笑)」
と娘さんに話していた。
その後自分がどのように演技して自分の席に戻ったかは忘れてしまったが、その言葉は今も忘れない。言われたことを恨んでいるわけじゃなくて、今もガキから脱却できていないなあ、と感じる時にお母さんのセリフを思い出すのだ。
そもそも元カノの母親に会いに行くってのもどうなのよ、という方もいるだろう。
でも、なんだか会いたくなってしまった。こんなところがガキ臭いのか。
住所が分からないので20年前の記憶を掘り出して「この辺だろう」というところへ行ってみた。
自分の記憶力はあまりあてにならないのだが、2軒目で目当てのお家を見つけた。
ベルを聞いて出てきた方は、会いたかったお母さん本人。
彼女は自分のことをほとんど忘れているようだったが、名を名乗ると「ああ、なおじくんね」と喜んでくれた。
時間はそれほどなかったが、お茶に誘っていただき少しお話をした。
今も現役のピアニストをしているお母さん。
フジコ・ヘミングさんともお会いしたこともあるそうな。
娘さんが九州在住で家が生き物(犬猫鳥クワガタカブトムシ)だらけだとか、息子さんが某大手ゲーム会社でゲームデザイナーとして活躍していることなどを話してくれた。彼が小学校6年生の頃に会ったことがあるが、その時すでに「ゲームを作りたい!」と言っていた。彼は見事に夢をかなえたのだ。
あっという間に時間は過ぎ、おいとますることに。
そういえば時計の針が5分遅れていた。それを忘れて長話していた自分。
恩師の講演までそれほど時間はない。
車をとばして大学まで。大学に入っても駐車場がなかなか見つからず難儀したが、なんとか開始5分前に会場に到着し、空いている席に座った。
すでに退官しているが、客員教授として大学で講義を続けていた先生。
最後の講義内容は、研究生活の中で出会った人たちの話。
自分も出会ったことのあるなつかしい方々。
その方々が先生に話した「名言」は、研究だけでなく一般生活にも通じるものがいくつかあった。
先生は白髪は増えたものの、それ以外はほとんど20年前と変わらなかった。
謝恩会では同級生・先輩・後輩・研究室は違ったがお世話になった先生方とお話をした。時間が戻ったかのような感覚。みんな年は取ったが元気だ。
謝恩会では話足りず飲み足りず、キャンパスの研究室に戻って二次会。途中で寝てしまったものの、会は午前2時まで続いた。
最後は同級生と屋台でラーメンを食べて解散。
何時に寝たかは覚えていない。