中東書記(聖書と呼ばれる書き物)を読まない男、紙様にぼやく

本、新聞などの記事について もごもごと感想を書きつつ、どこぞのカルト宗教に取り込まれてしまった方々についてぼやいております。

『預言者』を読む

前記事で『預言者』の一部を引用した。

興味が湧いたので図書館で本を借りてみた。

 

預言者』は長編の詩物語だそうな。

とある海辺の街にやってきた預言者アルムスタファが幾年かをこの街で過ごし、きっかけは不明だがこの街を去ることにした。

港を出る船に乗ろうとする預言者に街の人々が集まり、様々な問いを彼に投げかけ、彼がそれに答える、というような流れだ。

 

街の人々は「愛について」「結婚について」「子供について」「喜びと悲しみについて「教えることについて」などを預言者に問う。

 

読んでいて、中東書紀でイエスが人々の問いに答えているようだと感じた。

作者である詩人、カリール・ジブランはキリスト教の影響を受けているようだが、預言者の言葉に高圧的で支配的な言葉はない。むしろ育っていくものを温かく見守ろう、という優しいまなざしを持った言葉が並ぶ。

中東書紀のよい部分だけを抜粋したような感もあるが、一人の人間のぶれない思いが素敵な詩を創り上げている。

 

対して、様々な人間の思惑と都合によって削り取られ、切り刻まれ、つぎはぎされた中東書紀がみじめに感じられる。

 

前記事に挙げた詩は「子供について」の問いに対する返答だった。

他にも「教えることについて」は興味深い内容だった。

「宗教について」という問いもあったので、引用させてもらう。

 

 

年老いた司祭がたずねました。「宗教について語ってください」

すると彼は答えていいました。

 

私は今日、宗教以外のことを何か語ったであろうか?

宗教とは、すべてのおこないとあらゆる思いではないか?

さらにおこないでも思いでもないものは、両手が石を切り刻み、

はた織機の手入れをしているあいだでさえも、

魂のなかからとつぜん飛び出してくる驚きの気持ちではないのか?

人の信仰と行動を、あるいは信念と職業を、

誰が切り離すことができるだろう?

自分の時間を目の前に広げて

「これは神のためのもので、これは私自身のものだ。

これは私の魂のためで、こっちは私のからだのため」

といえる人がいるだろうか。

あなた方の時間はすべて自己から自己へと空をはばたく翼だ。

道徳心をいちばん上等な衣服としてまとうものは、

むしろ裸でいるほうがよい。

風と太陽がかれの肌に穴をあけることはない。

そして自分の振る舞いを道徳でしばるものは、

自分のこころのなかで歌う鳥を籠のなかに閉じ込めてしまっているのだ。

もっとも自由な歌は、横棒や金網を通しては生まれない。

礼拝は窓のように開けたり閉めたりできると思うものは、

常に開いている自分の魂の家をまだ訪れたことがない人なのだ。

 

宗教というのは、寺院などで礼拝をしたりすることではなく、

あなた方の毎日の暮らしがあなた方の神殿であり宗教である。

そのなかに入るときには、特別のときだけのものではなく、

あなた方のすべてのものをもっていきなさい。

入信するということはすべてのものをかけることなのだ。

鋤も炉も木槌もリュートも、もっていきなさい。

必要があって作ったものも、喜びのために作ったものも、

すべてをもっていきなさい。

なぜなら夢であるなら、

あなたは自分が達成したことより上にいくことも、

自分の失敗より下にいくこともできないからだ。

また、すべての人間を伴いなさい。

賞賛のためならば、あなたはかれらの望み以上に高く飛ぶことも、

彼らの絶望より低くへりくだることもできないのだから。

 

そして神を知りたければ、謎を解こうとしてはいけない。

むしろ周囲を見回しなさい。

神があなたの子供たちと遊んでいるのが見えるだろう。

空を仰ぐと、稲妻のなか、神が両手を差し伸べて

雲の中を歩き、雨のなかを降りてくるのが見えるだろう。

神が花のなかで微笑み、空へと昇りながら

木々のなかで両手を振っているのが見えるだろう。

 

(柳澤桂子 著「よく生きる智慧」から『預言者』【宗教について】抜粋)

 

個人的には非常に共感できる内容だったので、興味のある方はぜひお読みいただきたい。訳本は何種類かあるようだが、自分は図書館で借りることのできた本から読んだので、他の方の訳ではまた違った感触があるだろう。

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