中東書記(聖書と呼ばれる書き物)を読まない男、紙様にぼやく

本、新聞などの記事について もごもごと感想を書きつつ、どこぞのカルト宗教に取り込まれてしまった方々についてぼやいております。

不安と恐れを区別する(安易な答えを求めないで!)

5月28日に川崎で起こった通り魔殺人事件。

亡くなった方のご冥福をお祈りします。

 

推測でものを書くのはあまりよくないのだが、どこぞの宗教団体に所属する輩がこの事件をネタに「世間に凶悪犯罪が増え続けています」と、訪問先の不安をどのように煽ろうかと考えているのではないかという想像をする。

実際にうちのツマ、普段TVの報道は完全にスルーしてるのに、この事件の報道だけは目を画面に釘付けにして観ていた。何を目論んでいるかと勘ぐってしまう。

息子たちに無用な不安を与えてくれるな、と考えるものの、それを防ぐ術も見つからない。

 

今回の事件、個人的には被害者側に何の落ち度もなかった。このような事件を想定して何かに備えられたか、と言われたら自分は「何も備えようがありません」としか答えられない。

死角となる背後から突然襲ってきた者を見て、瞬時に対応する(逃げる)ことは難しい。

むしろ、道路を横切ろうとして、近づいてきた自動車を見て動きが止まってしまうネコのような状態になってしまうのではなかろうか。

 

 

幼稚園や学校に通う子供を持つ親は誰しも不安に駆られることだと思う。

でも、その不安の解決は、安易な方法では得られないと認識してほしい。特にこの不安を「自分たちの宗教に入信すればその答えを見つけられます」などと言う奴らの言葉を決して鵜呑みにしてはいけない。

その宗教団体はただ信者を増やすことだけに力を注いで、世間をよくするための努力をまったくしない団体なのだ。むしろ人々の不安をあおり立てて、不安を解決するには紙を信じればよい、という分かりやすい(安易な)答えを押しつけてくる人々なのだ。

 

5月16日放送のNHK「世界の哲学者に人生相談」は、不安への対処法についてがテーマだった。

www4.nhk.or.jp

 

この回で取り上げられた哲学者はハイデガー

ハイデガーは、不安の対象が明確なものは不安ではなく「恐れ」と定義した。

漠然とした「不安」と、解決方法が挙げられる(不安の対象にならない)「恐れ」を区別することで、心に占める不安の割合を減らす・・・というのが目的なのか。

 

正直なところ、今回の事件直後の段階で、不安を「恐れ」に移せるようなものはあまり多くない。しかし同様の事件を起こさないために様々な機関がアイデアを出している。

人々の不安を少しでも減らすために、「恐れ」をなくそうと努力している。

 

具体的に何をしたらどうなるかを明確に示さない宗教団体が、あいまいな誘いをしても「恐れ」の解決にならないことをぜひ理解してほしい。

 

どうか安直な誘いを受けた時に、少し立ち止まって考えてほしい。