中東書記(聖書と呼ばれる書き物)を読まない男、紙様にぼやく

本、新聞などの記事について もごもごと感想を書きつつ、どこぞのカルト宗教に取り込まれてしまった方々についてぼやいております。

最近の事件についてのぼやき

6月1日 元農水省の官僚さんが息子さんを殺したそうな。

 

事件のことや一家の状況について詳しく調べているわけではないので、これから書くことは個人の推測でしかない。

 

 

息子さんはもしかしたら、幼少期に親に過剰な支配をされてきたのじゃあないか。

 

人は本来生活の中で少しずつ、自分で判断することを身につけていく。

しかし親に支配された子供は、自分で判断しようとしたことを否定され、親がよかれと思ったことを押しつけられる。仮に親と子供が同じ判断になったとしても、その判断を親が先にした場合は子供の判断ではなくなってしまう。

次第に子供は自分で判断することを諦めていく。

様々な人間と、自分と違う考えをぶつけ、時に共感し、時に否定し、場合によってはお互いの妥協点や着地点をみつけてその場を収める。

自分で判断する術を持たず、親の下した判断しか認められなかった人間が、様々な考えを持つ人々のうごめく社会で適応できるはずがない。

たくさんの枝葉の芽をつけるはずの時期にその芽を刈り取られ、親が「いい実をつける」と自分の求めない枝を接ぎ木された幼木。

その木は親の求める実をつけるかもしれないが、自分の求める実じゃあない。

 

親がいくらたくさんの選択肢を与えたとしても、本人の意志を認めないのでは何も与えていないのと変わらない。

相手の嫌いな食べ物ばかりを食卓に出して「ほらこんなに豪華だよー」というのはいやがらせだ。

 

親は「子供のため」と言いながら、自分のクローンを育てようとしたり、自分のできなかった(やろうとしなかった)ことを子供に押しつけようとしてなかったか。

それを分かっていない親が多分現在の70〜80代には圧倒的に多かったんだと思う。

 

親への反抗を暴力でしか返せなかった息子さんは、本来身につけられるはずの自己判断を親に奪われ、理性的に反抗する術を考えることもできず、原始的な抵抗を行ったに過ぎない。

 

 

父親は息子を殺した。「世間に迷惑がかかる恐れがある」という理由で。

この文章を書きながら、親は最後の最後まで子供を支配しつづけていたのか、と感じた。

子供の人生に責任を持つこととは、子供を支配することではない。

「子供が自分で決めた生き方」に責任を持つことなのだ。