中東書記(聖書と呼ばれる書き物)を読まない男、紙様にぼやく

本、新聞などの記事について もごもごと感想を書きつつ、どこぞのカルト宗教に取り込まれてしまった方々についてぼやいております。

「逆説の世界史2『一神教のタブーと民族差別』」を読む

新聞の書籍紹介のページに書いてあった「一神教」にピキーン!ときて借りたのがこの本。

https://www.amazon.co.jp/逆説の世界史-2-一神教のタブーと民族差別-井沢-元彦/dp/4093884676

 

ユダヤ教イスラム教、そしてキリスト教は、旧約聖書を経典にしているのに、お互いを毛嫌いしているのはなんでだろうとボヤーと思っていたが、自分の思っていた「一神教」の認識がまったく甘いものだったとこの本を読んで感じた。

 

一神教の信者にとって、神は一人(ひとつ?)でなくてはならず、神が複数だったり、三位一体というある意味苦し紛れの解釈は「邪教」となるのだ。

 

本を読んでいる中で、イスラム教は旧約聖書の矛盾を指摘した上で、本当の神はアッラーだとしていたのだろう、と思った。後出しの方が前出しよりも有利に事を進められるいい例だ。ムハンマド旧約聖書をよく研究していたともいえる。

 

キリスト教イスラム教でバカバカしい教えのひとつに、金融業が蔑まれる職業(信者から利息を取ってはいけない)、という認識だ。その建前のおかげで、生活の生命線である金融業をユダヤ教の信者がほぼ独占し、資本主義社会になった多くの世界でユダヤ教の率いる企業が大手をふるうことになってしまったようだ。

 本音は金融を牛耳りたいのにそれができない鬱憤に、宗教的なあおりが加わってユダヤ人の虐殺が起こったのではないか、と勘ぐってしまう。

 

建前とする教義に対して「これならいいだろう」という解釈は、ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でもあるようで、そうなると紙の意思などいくらでも反故にできそうだ。

自分に言わせれば所詮人の作った紙。人間様の都合でいくらでも紙に譲歩させることが可能なのだ。

 

この本を読んで、JWの甘っちょろさをさらに感じた自分。

一神教を信じるというのは、それを信じない者たちを「邪教」とみなすことであり、「世を避ける」だのとのたまいながら、非信者の配偶者や親族の蓄えでぬくぬくと生きるようなことは決してできないことなのだ。

 

非信者の配偶者に無断で信者になった者は、入水した時点で家族を捨てて家を出る覚悟をすべきだ。もちろん子供も置いて。

(自分の宗教を信仰しない者という意味で)邪教徒である非信者の配偶者の収入に依存して生活するなど、絶対紙んを崇拝する者にとって最も恥ずべきことではないか、と思うのだ。

 

まあ今後の活動は、ここいら辺も含めてしかるべきところに訴えていこうと思う。

 

今「逆説の世界史1」も読んでいる。これも少々宗教がからむ話になっているので個人的には興味深い内容だ。

紙を信じる信じないに関わらず、「逆説の世界史」1,2共おすすめです。

気になる方はぜひお読みになってください。

 

 

先日ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が日本を訪問された。

広島・長崎を訪れ、原爆の被害にあった方々に温かい言葉をかけた。

一神教原理主義からするとこの行為は教皇としてふさわしくないように思うが、自分は彼を高く評価する。

すでに彼は絶対神を拝するという縛りから人を解放してよいと思っているのではないか、と勝手な想像をしている。