2019年 締め
年末に読んだ本で、一神教の本来の厳しさを知った。
その本質を知らず、自分の都合のいい(エゴを肯定してくれる)部分だけを全面に押し出し、自分に不利なものは徹底的に隠す輩。
自分に関わりのない人だったら好きにすればいいと思う。
しかし本人だけでなく周りに悪影響を与えるとなれば別だ。特にそれが子供に与えられるはずのたくさんの選択肢を奪うことであれば。
数学に関わる本を読んで、何かを証明する前にものごとの「定義」が必要になることを知った。
組織のよく使う「完全」って何だろう。
辞書には「必要な条件がすべて満たされていること、欠点や不足がまったくないこと」と書いてある。
それでは「完全な人間」とはどのような人間なのか。
彼らが共有しているはずの「定義」を知りたい。
それがないのにすぐに「完全」を持ち出し、不利になれば「人間は不完全だから」と言い訳する。
じゃあ「完全」らしい「紙」って何なのだ。
その定義を知りたい。
中東書紀の記述にあてはまるような紙なら、「完全な紙」の定義は「不完全な人間」と同義になるような気がする。
一神教では「偉大な紙の前では個々の人間の能力差などなきに等しい」として「紙の元では人間は平等だ」と説くらしい。
でもね、自分は、自分たちは、紙の世界で生きているのではない。
生き物のひしめく世界で、同じ人間たちにもまれながら生きているのだ。
想像できない「完全」な世界をぼんやりと妄想し、現実を受け入れない言い訳にして今の世界に背を向けて生きてもそりゃあ楽しくないだろう。ますます妄想が膨らむだけだろう。
誰にも迷惑をかけずに一人で妄想するなら何も言わない。
その勝手な妄想を、不安をあおりながら子供たちに刷り込むような人間を食わす気はないし、感謝などしようもない。
「エホバがすべてを備えてくれる」ならば、邪教徒の配偶者の元をすぐに離れて荒野に立ち祈るがいい。運が良ければ誰かが(結局人間だが)が拾ってくれるだろう。
ツマとはもうほとんど会話をしていない。
必要最低限な情報交換は、息子経由もしくはメールで行っている。
もちろんこれで正常なコミュニケーションが取れるはずもなく、機能不全を起こしている。そうであってもツマと言葉を交わしたくない。
もうこれは宗教の問題ではなく、いわゆる「性格の不一致」だ。そこに宗教が面倒くさく絡んで「信条の不一致」を付加している。
宗教や信条は自分の生き方の根幹に関わる部分だ。そこが相手と一致しない上にお互いを尊重する気のない状態は、維持していく関係には当たらないと思う。
では皆様、よいお年をお迎えください。
自分もよい年にすべく動き出します。
うえになおじ