いわゆる「神」と呼ばれるものに対するスタンス
「ものみの塔」「目覚めよ!」を読んでつっこみをいれようとしているのですが、だらだら書いているためなかなか進まず・・・それでも少しは書き込みをせないかんと思い、本日は自分の「神」に対するスタンス(考え)を書いておこうと思う。
実家は浄土宗を信仰する比較的熱心な祖父母がいた。
なので仏教に対して親しみは感じても負担は大して感じない。
妻がエホバの証人にはまってからいわゆるキリスト教について情報を集めるようになった。新改訳聖書を少し読んだが、旧約部分の半分も読まずに挫折した。そこまで読んで印象に残ったのは、ひたすらワガママな、というか感情的な「神」という存在だった。こんなのにすがりついていたユダヤ人は、よほど他に頼るものがなかったのだろうか。
さて、インターネットを通じてエホバの証人の情報を読んでいくうちに、一神教に対して思うことがあった。
特にエホバの証人の考え方だが、自分たちの信じる「神」が唯一絶対なので、他の宗教の神を認めない。それどころか「神」以外のものは「サタン」と決めつけ、一方的に悪(敵)とみなす。
もうこの辺から自分には拒否反応が出る。
悪(敵)とみなすことは、結果として相手と敵対し、争うことになる。争いにならなくても敵視するということは、温和な関係を作ろうなどとは思わなくなるわけだ。
多分一神教は、自分の崇拝する神以外を悪とすることで、自分たちの立場を優位に見せようとしているのだろう。そう考えただけで嫌悪を感じた。
さて、人間が地球にはびこるようになって、人間の起こす問題が大きく浮かび上がってきている。宗教は「神がうんたら」「神がハルマゲドンに勝ち、楽園が訪れます」と説くが、少なくともここ何百年の間、神が現れてその力を示したことはない。神が力を示したのは聖書と呼ばれる中東神話の中だけだ。
目にみえないものを信じないのは愚かなことかもしれないが、人間の宣伝に反して実際に神が力を示したことはない。
大した知識を得たわけではないが、偉そうなことを書く。
神は人間が作った(妄想したと書いたほうが正しいか)
だから神は決して人の前に現れない。妄想だから。神は見えないけれどそこにいる、というのは、裸の王様の見えない服を賛美する愚かな大人たちのようにも映る。
神の名を借りて、人間はどれだけ人を弾圧しただろう。どれだけ人を殺しただろう。「神の思し召し」も「神の意志」も責任転嫁だ。
「神」に責任をなすりつけることで人間は想像の許す限り残忍になれたのだ。神も悪魔もいない。あるのは人間の中の「神のような部分」と「悪魔のような部分」だ。
だから神は支配者や教祖の都合に合わせていくらでも作成されるしどのような姿にもできる。
本当に神がいるなら、人間全員に霊感で意志を伝えればよいのだ。次の瞬間に世界はひとつになるだろう。
この個人的仮説が証明できることはないが、これまでの宗教と人間の関わりからそう思った。
神がいなかったら自分の生きる意味は?目的は?と路頭に迷う人が出るかもしれない。
人間が生きる意味などない。目的だって最初はない。赤ちゃんが目的を持って生まれることはない。生きていく中で目的を見つけていくのだ。神に選んでもらう必要はない。
そして自分にとって意味のない生き方でも、自分の生き方によって他の人たちに影響を与えているかもしれないのだ。自分にとって意味のないことも、周りにとっては意味のあることになっているかもしれないのだ。自分にできることをできる限りでやれば、意味は後からついてくるに違いない。
あまりまとまりのない文章になってしまったが、自分の考えはこんなところだ。また少しずつ改変していこうと思う。