中東書記(聖書と呼ばれる書き物)を読まない男、紙様にぼやく

本、新聞などの記事について もごもごと感想を書きつつ、どこぞのカルト宗教に取り込まれてしまった方々についてぼやいております。

ものみの塔2015年6月1日号「科学は聖書を超えたか」を読む

さて、救いようのないタイトルです。

「科学は聖書を超えたか」

料理のおいしい食べ方と、じゃがいもの栽培方法を比較して、「じゃがいもの栽培方法は、料理のおいしい食べ方を超えたか」という題名をつけるかのようです。

スティーブン・ジェイ・グールドは、「科学と宗教がお互いに干渉すべきではない」と述べています。科学の前提と宗教の前提があまりに違いすぎるので、科学と宗教は比較のしようがないと訴えているのです。

生命の発生や、宇宙の誕生など、科学は様々な実験や観測、化石の研究などでその始まりを突き止めようとしています。

しかし宗教は、「本にそう書いてある」と訴えるだけで、それ以上の検証を行おうとしません。引用する本が正しいかどうかの証明もせずに「この本は神が霊感によって書かせたものだ」と訴えても、信頼度は上がりません。

 

では、本文に参りましょう。

P3「科学があなたの生活にもたらしたもの」

前半では、科学の恩恵を述べています。引用が中東神話ではなく「大辞林」というところも違う意味で注目すべきところです。つまりこの文章は、引用だけとはいえ日本人向けに描き直されているのです。まあ英英辞典の引用を日本語訳しても、当の日本人にはちんぷんかんぷんでしょうけどね。

後半で

科学者たちの中には、より遠く、より深く探求し、見えない未知の領域へ踏み込んでいくうちに、「聖書の神が存在するのなら、見つけられるはずだ」と考えるようになった人もいます。

残念ながらそういう科学者はいるようです。しかし「聖書の神が存在しなくても」見つけられることができるかもしれません。見つかったからといって「神は存在した!」と叫ぶことは、少なくとも科学者にとっては愚かな行為です。

 

P4

科学は絶対確実な結論を出せるほど自然界を知り尽くしているのでしょうか。答えは”ノー"です。科学は目覚ましい進歩を遂げてきましたが、多くの科学者たちは、未知の事柄、そして恐らく知り得ない事柄がいまだにたくさんあることを認めています。

「知り得ない事柄がいまだにたくさんあることを認めている」というのは、科学が「もうこれ以上は突き止められない!」と降参したわけでもありません。「わからない」からといって研究をやめてしまったわけでもありません。科学者の態度として「今、この事柄については分かっていない」という事実を正直に述べているに過ぎません。

それに対して宗教はどうでしょう。古い書物に書かれた脈絡のない一文を引き出してきて、こうこうこう書いてあるから聖書は正しい」と言うのみです。場合によっては文章全体の意味を無視して、ある一文だけで物事の説明を行おうとすらしています。

 

実のところ、自然界のほとんどは、微小な細胞から広大な宇宙に至るまで、いまだに現代科学の理解を超えているのです。

(以下、例)

「いまだに現代科学の理解を超えているのです」と記載していますが、これではまるで、「今分からないことは将来もきっと分からないままだ」と言っているかのようです。今この瞬間にも、科学者たちは研究を続けています。同じ書物だけを読んで、科学が新しい発見をしたらそれに合わせて解釈を変えて「聖書は現在の科学を見事に予言している」と言うのです。後出しジャンケンは反則ですよ。

 

著名なサイエンスライターはこう述べています。「人間は知っていることよりも知らないことのほうがはるかに多い・・・・・・。科学は、人を驚嘆させ、もっと知りたいと思う気持ちにさせるものであり、人を偏狭にするものではない、とわたしは思う。」

ですから、科学は聖書を超えて、神に対する信仰を退けようとしているのだろうか、と思う人は、こう考えてみてください。優れた科学者たちが強力な道具を使いながら自然界に関して限られた理解しか得られていないのであれば、科学による調査の限界を超えている物事をあっさりと退けるのは道理にかなったことだろうか、と。天文学の歴史と発展に関する長い記事の最後に、ブリタニカ百科事典(英語)が下した以下のような結論は核心を突いています。「天文学の歴史はほぼ4000年にもなるが、現代でも、宇宙はバビロニア人の目に映ったのと同じほど不思議なものである。」

サイエンスライターの述べていることはごもっともです。できればどなたの発言かを書いていただきたいものです。そして「・・・・・・・」に何が書かれていたかも記載していただきたいところです。この「・・・・・・」の内容によっては、ライターさんの言いたいことがまったく違ったものになるかもしれないので。

赤字の部分ですが、科学者は科学による調査に限界があったとしても、「分からないので神様のしわざとします!」とは決して言いません。投げ出したりもしません。「分からない」と正直に述べるだけです。それに反してエホビアンは「エホバが行いました」という単純な一言で結論づけてしまいます。何の努力もしていません。あっさりと避けているのはエホビアンの方でしょう。

ブリタニカ百科事典の言いたいことは、「今も昔も分からないことは同じだった」のではなく、「現代までに分かったこともたくさんあるが、それでも宇宙は不思議に満ちている魅力的な存在である」と言いたかったのでしょう。魅力的な存在だからこそ知りたくなる。考えるのをやめて「ああ不思議だなぁ」とまぬけな顔で星を見ている輩が科学を語らないでいただきたい。

 

P5 立証された科学上の事実と聖書

聖書は、科学の教科書ではありません。とはいえ、その筆者たちは、現代の科学者も関心を持つに違いない様々な事柄に対して正確なコメントをしています。その実例を幾つか挙げましょう。

だそうですが

地球や宇宙の年齢

聖書には、宇宙が創造された時を明らかにしている箇所も、わずか数千年前に地球が造られたと述べている箇所もありません。最初の節に、「初めに神は天と地を創造された」と記されているだけです(創世記 1:1)聖書のこの記述は、科学者たちが確かな科学的原理に基づいて決定した物質界の年齢と矛盾しません。

「初めに神は天と地を創造された」と書かれているだけで科学的とみなすのは乱暴な屁理屈です。科学的に矛盾しないということの前に、「科学的な記述ではない」のです。

 

地球を人間の住まいとして整えるための期間

聖書は、創造の6「日」間がどれほどの期間であったかを明確にしていません。むしろ、現代の科学者たちがそれらを研究し、的確な期間を割り出すことを可能にしています。この創造の「日」は、24時間の1日よりもずっと長いことが分かっています。

エホバさんの霊感を受けた人が書いたものなのに、6「日」を素直に6日間と解釈できないというのは、中東神話そのものに致命的な間違いがあるのではないでしょうか。

「6「日」間がどれほどの期間であったかを明確にしていません。」と述べた瞬間に、これは科学的な書き物ではないとみなせます。つまりどうにでも解釈できるあいまいな記述の載ったこの書物を引用して科学的な結論を導き出すことはできません。引用したとしても信頼されません。

 

地球は浮かんでいる

聖書によると、地球は「無の上に」浮かんでいます(ヨブ 26:7)

ヨブ 26 | オンライン聖書 | 「新世界訳」

自分が読む限りでは、地球ではなく、「地」です。自分の住む地面のことを指しているのであり、地球という球体を指しているとは思えません。

 

疾病対策と衛生に関する指示

聖書のレビ記には、イスラエル人に与えられた、伝染病の流行を防ぐ方法や隔離に関する指示が示されています。

うーん、不親切だなあ。レビ記のどこか書いてくれていない。そこを書いてくれないと何も言うことができません。夜遅いので、調べる気力がありません・・・

イスラエル人は、陣営の外の人目につかない場所で用を足し、土で「自分の糞便を覆う」必要がありました。科学者や医師がそうした衛生基準を設ける必要を理解したのは、今からほんの200年ほど前のことです。

土で自分の糞便を覆うのはネコでもやっています。「ネコババ」という言葉があるくらいです。衛生基準になるのかもしれませんが、他の人の衣服や靴に便がつくのを避けるためでしょう。紙様に言われる前にそりゃあするでしょう。

 

P6 科学には限界がある

デービッド・イーグルマンはこう書いています。「そういう本を読んで、科学者は何でも知っているとの印象を抱く人がいる。・・・・・・しかし、立派な科学者は常に偏見を持たず、その仕事には予想外の新しい発見がある。」

文中の・・・・・・には何が書いてあったのか、非常に興味があります。エホビアンの雑誌でよく使われる手口ですが、ある一文の途中を抜かすことで、本来その文章で言いたかったことをまったく別の意味にしてしまうことなのです。ですから、全文を記載するか引用した文献を挙げなければ、イーグルマンの意図は読めないのです。

 

昔から、有能な科学者たちが、自然に関する難解な疑問の答えを探求する中で、驚くべき大発見をしてきたことは確かです。とはいえ、その過程で重大なミスを犯した人たちもいます。アイザック・ニュートンは、有数の偉大な科学者であり、引力が惑星、恒星、銀河を結びつけて1つの宇宙にしていることを明らかにしました。また微分積分学、つまりコンピューターの設計や宇宙旅行や原子物理学で使われる数学の一分野を切り開きました。しかし、ニュートン錬金術、すなわち占星術や魔術を用いて鉛などの金属を金に変えようとする疑似科学も探求しました。

アイザック・ニュートン - Wikipedia

確かにWikiに上記のような錬金術を行ったという記載があります。

しかしそれを行っていたからといって、それ以前の業績が無になる訳ではありません。エホビアンは、立派な業績を残した科学者が、後年になっておかしなことをやっているからと、科学者を貶めようとしています。しかしこれが「科学の限界」に何の説明となるのでしょうか。少なくとも科学の限界としての例にはなっていません。

 

プトレマイオスは・・・(中略)信じていました。天体物理学者カール・セーガンプトレマイオスについてこう書いています。「プトレマイオスの天動説は、1500年にわたって人々の考えを支配した。このことから、知力の優れた人でも完全な間違いを犯す場合がある、ということが分かる。」

科学はギャンブルではありません。サイコロの目が外れたからといって、今までの勝ち分がゼロになってしまうようなことにはならないのです。科学は多少の後退もあるでしょうが、小石の山の上に小石を少しずつ積み上げていくようなものだと思っています。今までと違った理論が現れたからといって、これまでの理論を捨ててしまうことにはなりません。過去の理論を補填したり拡張したりして、より確実な理論へと発展させているのです。

 

物理学者ポール・デーヴィスはこう述べています。「あらゆる事柄に対する完全かつ自己矛盾のない説明となる、それ自体で完結している理論体系の探求は、必ず失敗に終わる」

これを受けて、

現存するすべてのものは科学によって説明できる、との主張がなされるとしても、それをそのまま受け入れないようにするのは賢明なことです。

だそうで。

さらにその後で

聖書は自然の脅威についてこう述べています。「見よ、これらは神の道の外縁。何とかすかなささやき事が神について聞かされたのだろう。」(ヨブ 26:14)

ヨブ 26 | オンライン聖書 | 「新世界訳」

つまり、「科学はすべての事柄を説明できていないのだから、中東神話に書かれている偉大な紙様のことを信用した方がいいよ」と言いたかったのでしょうか。

 

P7 科学からは得られない導き

・犯罪の禁止

中東神話だけでなく、他の国の過去にも同じような禁止事項がありました。仏教にも無益な殺生は慎むようにという教えがあったような気がします。

 

・家族の幸せ

親に従順である必要があるのは、親の言い分を自分で検討して納得した時だけです。無条件に従うのは従順ではなく「盲順」です。

「子供をいらいらさせないように」という記載がありますが、いもしない神にハルマゲドンを語らせて、恐怖感で結果的にいらいらする子供に育てようとしているのは誰でしょうか。

 

・自然の保護

「地を破滅させている者たちを破滅に至らせます」(掲示 11:18)

ヨブ 26 | オンライン聖書 | 「新世界訳」

前の文章を読むと、「地を破滅させている者」というのは、「その地の人々を殺している」というニュアンスではありませんか。

 

今回はここまで。

要するに「科学は信頼できることばかりではないし、未だ分からないこともたくさんある。それに対して中東神話には信頼できる情報が書いてあるので正しい。」と言いたかったのでしょう。

まあ科学と宗教は相容れないものなので、書かれていることが検証されていない中東神話を科学との対話に持ち出してもなんにもなりません。

では、おやすみなさい。

 

・・・最後に書いた「科学と自然は・・・」は、「科学と宗教は・・・」の間違いでした。訂正しました。