無になることを恐れない
何もしていないのに、また歳を取ってしまった。
もう誕生日おめでとうと言われても、めでたいのだろうかという気になる。
戸籍上の配偶者も、息子たちも何も言わない。誕生日を祝うと滅ぼされると、どこぞの宗教に吹き込まれているからだ。
自分も子供のころ親の誕生日なんぞ祝ったことがないので、祝われなくても当たり前なんだろうけど、「誕生日を祝わない」と宣言されたがために「誕生日を祝ってもらえない」という余計な感情を抱くようになっている。
自分の親はどんな気持ちだったんだろう。
さて、誕生日を祝うと狭量な紙に滅ぼされるという某新興宗教。
滅ぼされるというのは「無になる」ことらしく、地獄で永遠の苦しみを味わう、というものではないらしい。で、その無になることを信者たちは異常に恐れているみたい。
しかしその恐れは正当なものなんだろうか。
無になるということは、肉体はもちろん思考も無になるということだ。
無になった時点で痛みや苦しみの感覚はない。感情や感覚を抱く主体がなくなってしまうのだから当然だ。
むしろこの状態こそが無の境地であり、「極楽」と呼べる状態ではなかろうか。
無であるから何の変化も起こらないし、何も増えないし何も減らない。状態としては安定していて「極めて楽」なのではあるまいか。
そんなことを考えると、絶対紙んを崇拝する輩に「ハルマゲドンで滅びます」と言われても「ああさいですか」と平気でいられそうだ。
かりそめの楽園で紙におびえながら1000年過ごすのと永遠に無となるのと、どちらが極楽なのだろう。冷静に考えれば答えは1つにしかならないと思うのだが。