ふうせん
「ただいまっうわあ!」
玄関のドアを開けた私は、目の前に唐突に現れた赤い物体にギョッとして後ずさりした。
「おかえりー、どしたー?」
心配しているとは到底思えない脳天気な声がリビングから転がってきた。
私の目線ちょうどの高さに浮かぶ赤い風船。
臆病な乙女をビビらせた罰とばかりにそいつを小突きながらリビングに入ると、旦那がニヤリと無精ひげを生やした顔を向けた。
「どしたのこれ?」
「ああ、おとといネットで見かけて気になったんで買ってみた。」
「・・・・・」
旦那はイベント関係の仕事をしている。勤務日も不規則で、勤務時間も午前中で上がりだったり3日徹夜だったりとバラバラだ。収入も同じようにバラバラ。年収を月平均すると家族で生活するには少々きつい状態なので、息子を保育園に預けて私も働くことにした。
「あれ、たーくんはどこ?」
「ん、今何時?」
「まだ迎えに行ってなかったの? もう5時過ぎてる。」
「やば!」
膨らみかけの風船を放り出して旦那は飛び出していった。
自由を得た風船は勢い良く空気を吹き出して天井にぶつかり、小さくなった体に満足そうな表情を浮かべながら私の頭に着陸した。
良く言えば自由な人。悪く言えば自分勝手な人。
そんな旦那のことを好きになったものの、振り回されて精神的に疲弊することもけっこうあった。
今は比較的落ち着いているが、付き合い始めてから少なくとも10回は転職している。私になんの相談もなく、いつも事後報告。
不器用な自分にとっては仕事をとっかえひっかえできる旦那をうらやましくも思うが、もう少し一つの仕事を真面目にやって欲しいとも思ったり。
旦那が休みの日は息子の保育園の見送りとお迎えを頼んでいる。
保育園ではけっこう園児に人気があるらしく、登園すると遊び相手にされていつまでも帰ってこない。一時は保育士を目指そうとも思ったらしいが、オルガンがどうしても弾けないのであきらめたそうな。
部屋には膨らんだ風船が数個、勝手気ままに漂っている。
さっき私をびっくりさせた赤風船が、夕ごはんの支度をしている自分に近寄ってきた。
「もう驚かないわよ」
そう言って風船をにらんだ次の瞬間、バン!という音がしたので不覚にも飛び上がってしまった私。
いつの間にか背後にいた風船が、柱のささくれにひっかかって割れた音だった。
とばっちりを受けるのを察してか、赤風船はすでにリビング隅の天井に張りついていた。
「ただいま!!!!!!」
元気な声とドタバタ大きな足音。
息子が足にしがみついてきた。
「おかえりたーくん。お迎え遅くなってごめんねー。」
「だいじょうぶ。オレつよいから。」
4歳にしては頼もしく感じる息子。これまで大きな病気をしたことがなく、熱を出すことも滅多にないので助かっている。わんぱくなのは想定内。ケガはよくしてくるが、元気なのは悪いことじゃない。
「あれー、ふうせんだ。」
部屋に浮かぶ風船に気づいた息子が手を伸ばして取ろうとするが届かない。何度もジャンプしてみたが、風船のしっぽにあと10cm足らず。
ジャンプするのをあきらめた息子は、テーブルに収納していたイスをひきずってきてその上に乗り、逃げようとした風船を両手でつかんだ。
「ふうせんゲットだぜ!」
顔全部を使って笑う息子に自分もつられて笑ってしまう。
「おー、おサルさん並にかしこくなったなー。」
戻ってきた旦那も笑う。
息子は捕まえた風船を旦那に渡すと、次の風船をゲットすべくイスをひきずりだした。
風船の浮かぶ食卓。
旦那が扇風機で送った風に乗って、風船がそよそよ散歩する。
息子は漂う風船をご飯もそっちのけで眺めている。
旦那はカレーを口いっぱいにほおばってモゴモゴしながら息子を眺めている。
私はそんな二人の姿を見つめながら(ん、今日のカレーはなかなかいい出来)と自分をほめる。
夕ご飯の片づけは遅くなりそうだ・・・
ご飯の後、旦那と息子で風船作り。
ヘリウムガスのボンベの先に風船を取りつけてコックをひねると、ブシューと風船が膨らむ。息子はその様子を見てケラケラ笑う。
旦那がマジックペンを持ってきた。近くの風船をつかまえて何やら書いている。
息子も「オレもやるー!」と言って別のマジックペンを出して、丸だの四角だのを書きだした。
この様子ではまだお風呂に入りそうもない。
最後にすすいだお皿を水切り棚に置いて
「おかーさん先にお風呂入るね。」と台所を離れた。
旦那が家にいれば、息子は旦那と一緒にお風呂に入る。こんな時でもないとお風呂でのんびりなんてしてられない。
「はあ、極楽極楽」と湯船につかりながらぼーっとしていると、わずかにひんやりとした空気を感じた。
浴室のドアが少し開いている。ドアの閉じ方が甘かったか?
と思うか思わないかのうちに、緑色の風船が隙間から顔をのぞかせた。あ、ホントに顔が書いてある。少しいびつな丸の中に大きな黒丸。息子の大きな目にそっくり。大きな口も息子とおんなじ。
プカプカ浮かびながらこちらを見つめる風船の目。
「たーくんの代わりに来てくれたのね。」
今度は赤い風船が忍び込むように入ってきた。黒でぐちゃぐちゃに塗った丸。ゲジゲジ眉毛。無精ひげもご丁寧に書いてある。
お風呂の湯気にも負けず、なぜか赤風船の視線が私から外れない。
なんだか旦那に見られているような気になってしまい、恥ずかしくなって胸を腕で隠した。
赤い風船は視線を外すどころかジリジリ近づいてくる。
「このスケベおやじ!」
湯船のお湯を手でかけると、赤い風船はくるくる回って壁や天井にぶつかりまくった。
たーくん風船とのぞき風船を連行してお風呂から上がると、リビングがほぼ風船で埋め尽くされていた。
「ふうせんのうみだよー」
息子は浮き輪に体を通して旦那に持ち上げてもらい、風船をかきわけながらバタバタ泳ぐ真似をした。
「おかーさんもきてー」
私は一旦しゃがんでから、頭上にある風船の集団に向けて伸び上がった。
赤・青・黄・緑・白・桃・橙・紫 が私の周りでゆらめいた。
満面の笑みを浮かべた息子が私に両手を広げる。
小さいけれど熱く柔らかな手を愛おしく感じながら、私は息子と泳いだ。
丸い波がはねる中を。
「たーくん泳ぎ上手だねえ。」
「きょねんのなつにたくさんれんしゅうしたからね」
「今年は海に行ってみたいね」
「いくー!」
「おとーさんも行っていい?」
「だめー、おかーさんとふたりでいくの」
「えー、おとーさんもたーくんと一緒に泳ぎたいなあ」
「おとーさんはおしごとするのー!」
お風呂から上がると、ほどなく息子は寝入ってしまった。
息子を挟んで私と旦那は川の字に。
風船はまだ部屋に留まっている。
蛍光灯を消すと、ナツメ球の淡い光が風船の輪郭を薄ぼんやりと映しだした。
「明美」
「何?」
「オレって風船づくりの才能あるよね」
「は?」
「風船売りを生業にするのもいいな」
「家族全員、ヘリウムガスを吸うだけで生きていければね」
「おお、仙人になれるかも」
「バカ」
か弱い光が揺れる。
明日の朝ご飯はベーコンエッグとキャベツの千切りでいいか。
目が覚めた時、赤風船の黒目が私をジーと覗き込んでいた。
ヘリウムガスが抜けたらしく、ほとんどの風船が床や布団に転がっている。
息子も旦那もまだ起きそうにない。
たーくんはともかく旦那、何の悩みもないようなまぬけ面で眠っている。
しばらくその顔を見つめていると、ツツツと赤風船が近づいてきた。
そいつにパンチを喰らわせて天井に飛ばしてから、もうひとつの風船にそっとくちづけした。