他人への親切を強要する宗教の余計なお世話
2ヶ月近く更新していなかった。
まあブログに書くネタがなかったからだ。
この記事も書きたい衝動があったから書いたわけではなく、そろそろ何か書いた方がいいなあと思っているだけだ。
以前も書いたが、集会や表だった宗教の押し売り活動がなくなったおかげで、息子たち2人は比較的自由な状態にある。ただ、自宅にいる時間が増えることでツマの影響はそれなりに受けることになる。
しかし1人の圧力はそれほど強くない。集会場で、同じ(危ない)思想を持った集団から加わる圧力に比べれば、逃げる手段も場所もある。
ソースはものすごくゆるい反抗期のような感じ。ツマの命令をのんべんだらりとかわしてスマホをいじり続ける。それを見ている自分も腹が立ってしまうような状態だが、第三者はなるべく介入しないようにしている。将来の生活を息子に頼る気のない自分は、息子が経済的・精神的に自立してくれればよいと思っているので、親の願望は子供の願望とは違うと思い、ある程度好きにさせている。
ボヤージュはといえばツマに従順な、表面的にはいい子に仕立てられている。
しかし気に入らないことがあると暴れもするし、ツマにも反抗することがある。
まだツマにだっこをせがみ、ツマと一緒に風呂に入り、ツマと一緒のふとんで寝るような生活をしているため、ハハ離れは遅くなるだろう。それ以前にツマが子離れしない可能性の方が高い。
今朝、ボヤージュが起きてこないので、ツマの部屋のドアの隙間から部屋をのぞいたら、ふとんに寝たままカレブの動画を観ていた・・・
起きがけに元気のないのはこの動画を観ているせいじゃないのか?
JWが子供たちに与えるのは根拠のない罪悪感。ビデオでの刷り込みは有効な手段だろうが、それによって子供たちの精神的な健康が失われるのに親は気がつかないようだ。まあJWを「真の組織」だと思い込んでいるのだからしょうがないのだが。
自分というものを持たない人間は、誰かに干渉することで自分の存在意義を得ようとするように思う。
あるカルト宗教は「他人に親切にすること」を強迫的に押しつける。
先日の夜も、ツマが自分の部屋でJWのおともだちに電話をしていた。自分をアピールするためか正当化するためか、やたら声が大きく、部屋の外でも聞こえる状態。
「『私はソースくんとボヤージュくんの力になりたいんです』だって」という言葉が耳に入った。
大きなお世話だ。
見守ってくれるだけでいいものを、何か声をかけなきゃとか、何か手を出さなきゃという宗教由来の強迫観念から、そのままで十分なものをゆがめ、下手をすると壊す。もちろん壊れても(親も含めて)知らん顔。
親にとっては、手を出さない勇気、口を出さない勇気も必要だ。
子供に対して自分の気に食わないことをすぐに口にしたり手を出すのは簡単だ。理由だって簡単に作れる。
「あなたのため」って。
でも本当にそうなのか。
自分のエゴを押しつけたいだけじゃないのか?
自分のかなわなかった夢を子供に託しているだけじゃないのか?
自分のできなかったことを子供がしているのに嫉妬しているだけじゃないのか?
最近「ドリーム・ハラスメント」という本を読んだ。
ここ最近子供に「夢」を求めすぎる風潮に一石を投じる一冊だ。
興味のある方はぜひ読んでいただきたい。
実は、世の中には様々な種類のハラスメントが存在するのだと感じた。
自分が関わるようになってしまったJWの問題も、「レリジョン・ハラスメント」という言葉に置き換えることができるのではあるまいか。
1ヶ月ほど前から紙の日記を書くようになった。
ブログに書くほどではないこと、ブログには書きたくないこと、を気の向くまま書いている。
そんなことをやっているからブログを書く気がなくなっているのかもしれない。
ただ、自分の視界に収まる世界が変わっていないように見えても、自分の見ていないところで、それもごく身近なところで状況は悪くなっているのだとも感じた。
過激な手段を取っても反発されるだけ。子供たちの「正しいものが何かを判断する心」を信じるしかない。
とはいえそのような教育をしてこなかった自分。まったく安心ができない。