紙考
新口語訳聖書 マタイによる福音書 5ー45より
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
ふと思った。
天の父が、善人にも悪人にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせるというなら、天の父は「公平」な存在だといえる。
そしてその質や量については記載がない。
「公平」という概念は、「すべての人が満足する」ことではなく、すべての人が等しく被る物事(の量)ともいえる。
例えば、幼稚園児とプロレスラーに中学生用の給食を支給するのは「公平」だ。
幼稚園児が食べきれず、プロレスラーが物足りないと不平を漏らしたとしても。
元の文句に戻る。
悪い者にも良い者にも太陽をのぼらせるのなら、紙に頼る必要などないだろう。
同じく正しい者にも正しくない者にも雨を降らせるのなら、やはり紙に頼る必要はないだろう。
ましてや「紙を信じる」者が「紙を信じない」者よりも「紙に救われる」ことなどないはずだ。
となると、紙に依存する宗教ほど、紙から「公平」に与えられるものに不満を感じ、自己を満たされない事柄を「サタン」とみなしてしまいそうな気がする。
公平な紙様の概念はそれほど嫌いではないが、すべての人を救うような八方美人的な紙様はいないだろう、と思った節分前の深夜。
紙はー、外!
神はー、内!
エホバーは、圏外!
ヒトはー、家!!!!!