中東書記(聖書と呼ばれる書き物)を読まない男、紙様にぼやく

本、新聞などの記事について もごもごと感想を書きつつ、どこぞのカルト宗教に取り込まれてしまった方々についてぼやいております。

居場所

仕事の日はいつも、下の息子(ボヤージュ)が「今日何時に(家を)出る?」「何時に帰ってくる?」と聞いてくる。

最初はツマに報告するために聞いているのかと思っていい気はしていなかったが、最近そうではないのかも、と感じてきた。

帰りが遅くなると告げると残念そうな顔をする。帰宅が比較的早いとちょっと笑い顔を見せる。

 

最近ボヤージュはスマホゲームにはまっている。

もちろんJW的にはNGなので、ツマに隠れて自分(なおじ)のタブレットを使っている。

コロナ禍ということもあるが、もともとツマの見えない圧力で友達と遊ぶという選択肢を削除されてしまったことで、家の中で過ごす術しか持たなくなってしまった。

そんな状態の上、さらにツマにまとわりつかれていたら、さすがにボヤージュもうんざりするだろう。

 

自分が自宅にいる時、ツマは用がない限り自室に引きこもっている。自分はリビングでTVを見たり本を読んだり。ボヤージュは部屋の隅でタブレットをいじる。

ツマがリビングに近づいてもすぐには見つからないように、部屋の死角にタブレットを置き、ツマが部屋から出る音を聞くと即座にタブレットを隠し、何もなかったように踊ったりリビングを飛び跳ねたりしている。

自分からするとわざとらしくてバレバレなのだが、本人はそれなりに必死なのだろう。多分ツマも気づいているんじゃないかと思っている。

 

仲がよいからといって四六時中一緒にいるのは息が詰まる。少なくとも自分はそう。

同じ空間にいるからといって何か話をしなくちゃ、とか、何かコミュニケーションを取らなきゃいけないとか、そんな気にはならない。

初対面の相手となると、多少は話をした方がいいかとも思うが、家族として一緒に暮らす相手に「話しかけなきゃ」「何かアクションをかけなきゃ」なんて強迫観念めいた気持ちを抱くようではその関係性はおかしいのだと自分は思う。

何も話していなくても安心して一緒にいられる、というのが自分の理想。

ツマとはもう「どうでもいい話」ができないから何も話すことがない。

 

少し前にある本を読んだ。

bookmeter.com

 

母という人間に縛られつづけた三世代の女性の話。

これはもう呪縛といっていい。JW毒親と子供の関係に酷似している。

ただ、最後は救いのある終わり方となり、主人公に共感した。

 

もう家が自分の居場所でなければならない、という固定観念は捨てたほうがいい。

家や家族(特に親)こそが自分の自由を縛りつけているのだ、という考え方が少しずつ若い人たちに浸透していくといい。

十数年前だったらエンディングに対して非難が集まっていたかもしれない。でももうそれは古い考え方だと思う。

 

「こども庁」が「こども家庭庁」に名称変更されたのは「まず家庭あってのこども」という古い考え方をする人(どうやら旧統一教会もからんでいるようだが)の圧力があったかららしい。

こんなんじゃあこどもを守る組織には到底なりそうにない。

 

自分の居場所は自分で決める。それが学校だったりクラブ活動だったり塾だったりコンビニの駐車場だったり、いろいろあっていい。

誰かに強制された居場所など、動物園の檻でしかない。